『自己を悟るための科学』

         著:A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ

第1章 自己の科学を学ぶ

 

自己の発見

 

 あなたはだれでしょうか。体でしょうか、それとも心でしょうか。あるいは、なにかもっと高い存在なのでしょうか。あなたは自分がだれかをご存じでしょうか、それとも、知っている、と思っているだけなのでしょうか。そもそも、この問いかけは大切なことなのでしょうか。真実を知らない指導者たちが率いるこの物質的社会では、ほんとうの自分、高尚な自己について尋ねることはタブーになっています。尋ねるかわりに、自分の体を維持すること、飾ること、満足させることに貴重な時間を使っています。ほかにすべきことがあるのではないでしょうか。

 

 とても重要な意味をもつこのクリシュナ意識運動は、社会を精神的な死から救うためにあります。いま、社会は盲目的な指導者によってまちがって導かれています。かれらは、人生の目的が自己を悟るためにあり、最高人格主神との失われた絆をふたたび築くことにある事実を知りません。この点が欠落しているのです。クリシュナ意識運動は、この大切な問題を説くことで人々を啓発することを目的にしています。

 ヴェーダ文化は、人生の完成はクリシュナ(最高人格主神)と自分の関係を悟ることであると定めています。超越的科学の権威者がすべてのヴェーダ知識の根本と認めている『バガヴァッド・ギーター』を読むと、人間はもちろん、どんな生命体も最高人格主神の部分体であることがわかります。部分体は全体のために働くもので、それは足、手、指、耳などが体全体のために働くのと同じです。生命体は主の部分体ですから、どうしても主に仕えなくてはなりません。

 それが証拠に、私たちは家族、国、社会など、仕える相手の違いこそあれ、いつも奉仕をしています。仕える相手がいなければ猫や犬の世話をしようとする。こういう事実を見れば、私たちにはもともと仕える性質があることがわかるのですが、それでも、身を粉にして仕えても満たされません。奉仕を受けた相手もそうです。物質的な段階では、だれもがどこかに不満を感じています。その理由は、奉仕が正しい方向に向けられていないことにあります。たとえば、木を育てるにはまず根に水をかけなくてはなりません。葉、幹、枝などに水をかけてもなんにもなりませんが、最高人格主神に奉仕がなされたら、すべての部分がおのずから満足します。こうして、社会や家族や国のための活動、福祉活動など、すべての活動が最高人格主神に仕えることで満たされるのです。

 最高人格主神と自分と立場を理解し、その理解に従って生きるのが私たちの義務です。それが人生の成功でもあります。しかし、中には従わない人もいて、「神はいない」「私が神だ」「神など気にしない」などと言います。しかしそのような反抗精神にうったえても救われません。神は実在しますし、毎瞬間見ることさえできます。神を見ることを拒む人に、神は無慈悲な「死」として現われます。ある面に神の存在を見ることを拒めば、別の面で神を見ざるをえなくなります。最高人格主神は全宇宙の根源ですから、さまざまな面をそなえています。主からはぜったいに逃れられないといえます。

 クリシュナ意識運動は、盲目的・狂信的な宗教ではありません。また昨今見かけられるような、即席聖者がはじめた反乱宗教でもありません。正しい権威にささえられ、絶対至高者・至高の享楽者との永遠のつながりを科学的に求める宗教です。クリシュナ意識では、主との永遠の絆をよみがえらせ、主への義務を実践する方法を教えています。クリシュナ意識を実践すれば、人間として生きているいま、最高完成が達成できるのです。

 人間としての生活は、精神魂が何百万年ものあいだ輪廻を繰りかえしたはてに手にいれた到達したことを覚えていなくてはなりません。人間は、生活必需品を動物などの下等生物よりもかんたんに手にいれることができます。豚、犬、ラクダ、ロバなども、私たちと同じように、生活必需品を手にいれることは重要ですが、動物たちはもっと原始的な手段をとおして解決されます。いっぽう、人間は自然の法則によって、より快適に生きられるようすべての便宜が整えられています。

 なぜ人間には豚や他の動物より快適な生活環境が用意されているのでしょうか。高い地位にある行政官がふつうの社員より快適な便宜が与えられているのはなぜでしょうか。答はかんたんです。行政官は一般社員より責任のある仕事をする必要があるからです。同じように、人間には、空腹を満たすことしか考えていない動物よりも重要な義務があります。しかし自然の法則によって、現代の動物じみた文化は、胃袋の問題をふやしているにすぎません。そのような「洗練された動物」に精神生活を勧めると、胃を満たしさえすればいい、神について尋ねる必要はない、と答えます。ところが、元気に働きたくても職を失う可能性はいつでもあり、自然の法則のためにさまざまな障害が作りだされています。それでも、愚かな人々は神の存在を認める必要はない、と断言するのです。

 人間の体は、豚や犬のようにただあくせく働くのではなく、人生の最高完成を得るために用意されています。人生の完成が求めていなければ働くことだけを強いられ、それも自然の法則のなせるわざです。カリ・ユガ(今の時代)が終わるころには、1枚のパンのためにロバのように必死に働かなくてはならない、と経典で述べられていますが、じつはその状況はすでに始まっていて、収入は年々減少し労働条件は日々過酷さを増すばかりです。人間は動物のようにただ働くために生きているのではありませんから、人としての義務をはたさないかぎり、自然の法則によって下等な生命体の体に転落します。『バガヴァッド・ギーター』では、精神魂が自然の法則によって誕生し、前世の意識に応じた体を得て、俗界で物質を楽しむための感覚や器官を授かることがはっきりと説明されています。

 『バガヴァッド・ギーター』には、神の道を歩いている途中に挫折してクリシュナ意識をまっとうできなかった人々が、生まれかわったあと、高貴な精神的家庭や裕福な商人の家庭に生まれる、とも述べられています。成功をのがした求道者でもそれほどすばらしい家系に生まれることができるのなら、じっさいに成功した人々が得る恵みはどれほどのものでしょぅか? このように最高人格主神のもとに帰ろうとする試みは、途中で挫折したとしても、来世での高貴な誕生が約束されるのです。精神的・経済的に恵まれた家庭環境は、前世で終わった時点から再出発する機会を提供してくれるので、精神的発展には有利です。清神的に悟るうえで、健全な家族が作りだす雰囲気は精神的知識をはぐくむことでは申し分なく、『バガヴァッド・ギーター』は、そのような優れた家族に生まれた幸運な人は前世で献愛奉仕をしている、と説明しています。不運なことに、せっかくそのような家族に生まれても、マーヤー(幻想)の力にまどわされて『バガヴァッド・ギーター』の知識に耳を傾けない人々もいます。

 裕福な家に生まれた人は小さいころから食べ物に不自由せず、そのあとも安定した快適な生活ができます。そのような暮らしができれば、精神的な悟りを高める機会に恵まれるのですが、不運にも、いまの鉄の時代(機械と機械じみた人間があふれる時代)による悪影響で、裕福な家の子どもが感覚満足におぼれ、精神的に目覚める好機をにがすことがあります。だから自然はみずからの法則を使って、そのような黄金の家々を燃やそうとします。悪魔ラーヴァナが支配していた黄金都市ランカーも灰と化しました。それが自然の法則の働きです。

 『バガヴァッド・ギーター』は、クリシュナ意識という超越的科学の初等教育であり、国政をつかさどる立場にある人々は、『バガヴァッド・ギーター』の教えを座右の銘とし、経済をはじめとする各方面の問題の構想を練るべきです。確かな知識もないのに経済問題を解決しようとするのはまちがっています。私たち人間は、自然の法則ゆえに起こる人生の究極問題を解決しなくてはなりません。精神的な活力がなければ文化は淀むものです。魂が体を動かし、命ある体が世界を動かしています。体のことは心配しても、その体を動かしている魂のことは知らないのが現代人です。魂がなければ体は微動だにしない。つまり死んでいるのです。

 人体は、永遠の生活を得るための願ってもない乗りものです。物質存在という無知の海を渡りきるための、まれで、きわめて重要な船ともいえるでしょう。その船は、優秀な船長、すなわちグルの助けを授かることができます。神聖な力に助けられたその船は順風に帆を上げて進みます。そのような幸運な機会に恵まれているのに、無知の海を渡る旅に出ない人がいるでしょうか? その機会を利用しないのは、自殺行為に等しいことです。

 グリーン車の個室はもちろん快適でしょうが、列車が目的地に向かうものでなければ、エアコン付きの個室もそれこそ無用の長物です。いまの文化には、楽をしようとする風潮が強すぎます。ふるさとに、主のもとに帰る、という人生の真の目的地のことなどだれも尋ねようとはしません。快適な居間でぬくぬくと座っているだけではいけません。乗り物が正しい目的地に走っているかどうかを見きわめてください。失ってしまった精神的正体を取りもどす、という人生の第一義を忘れて気楽に暮らしてもなにも得られません。人間生活という船は、精神的な目的地に進むよう設計されています。しかし、その船は5本の頑丈な鎖によって物質的な意識に固くつながれています。(1)精神的真実を知らないためにおこる肉体への執着。(2)血のつながりのために感じる親類への執着。(3)郷里への執着、または家、家具、土地、財産、仕事の書類などの物質的財産からおこる執着。(4)精神的な視点がないために、神秘的と捉える物質的科学への執着。(5)人格主神や主の献愛者を知らずに行なう宗教形式や神聖な儀式への執着(両者の存在があってこそ、それらは神聖化されるのに)。人体という船を鎖で固定するこれらの執着は、『バガヴァッド・ギーター』の第15章で、地面にかぎりなく根を広げていく菩提樹の根にたとえられています。そのがっしりした根はかんたんに切りたおすことはできませんが、主はその方法を教えています。「この世界ではこの樹のじっさいの姿は見えない。始まるところ、終わるところ、根ざすところ、すべてだれにもわからない。だが、決意を胸に、無執着の剣でこの強力な根を持つ樹を切りたおさなくてはならない。そしてひとたび到達すればもどる必要のない場所を捜し、太古の昔から万物の源であり、いっさい万物をその体から発散させた方である最高人格主神に身をゆだねよ」(『バガヴァッド・ギーター』第15章・第3-4節)

 科学者や推論の巧みな哲学者も、宇宙の構造について確かな結論には辿りついていません。あるのは仮説だけ。物質界が現実であると言う者、夢だと言う者、永久に存在するという者がいます。こうして俗な科学者によってさまざまな見解がしめされていますが、俗な科学者も推論的学者も宇宙の起源や広さについてはなにも発見していないのが事実です。いつ創造がなされたのか、どうやって天体系が空間に浮いているか、だれも説明できません。引力の法則などと吹聴して理論だけで法則を説いたりしても、その法則をじっさいに使うこともできません。真理を説明する正しい知識がないので、独自の理論を発表して名を上げたがっている者ばかりですが、断言できるのは「物質界は苦しみの世界であり、机上の空論だけで苦しみは克服できない」ということです。みずから創造した宇宙内のいっさい万物を知りつくしている人格主神は、苦しみの世界から脱出しようと望むことこそなによりも大切なことであると教えています。物質的なものすべてに対して無執着にならなくてはなりません。逆境を切りぬけるためには、自分が置かれた物質的な状態を100パーセント精神化させなくてはなりません。鉄と火はまったく違った要素ですが、火のなかに長く入れておいた鉄は火と変わらなくなります。同じように、物質的な活動は精神的な活動をすればやめられます。活動をやめればいい、ということではありません。活動を停止するという考えは、物質的な活動を否定しただけですが、精神的な活動は物質的な活動を否定すると同時に、私たちの真の生活を活性化させるものです。永遠の生活、すなわちブラフマン・絶対者に守られた精神存在を強く求めなくてはなりません。ブラフマンの永遠なる世界を、『バガヴァッド・ギーター』は「ひとたび行けば戻ってこない永遠の国」と説明しています。それが最高人格主神の国です。

 私たちがいつから物質生活をはじめたのか、だれにもわかりません。また、どのようにしてこの俗世界にしばられるようになったかを知る必要もない。物質界ははるか昔から存在しています。いまこそ、いっさい万物の根本原因である至高主に身をゆだねなくてはならない、と考えるのが最善の選択です。最高人格主神のもとに帰るのにまず必要な資格を『バガヴァッド・ギーター』(第15章・第5節)が説いています。「偽の名声を求めず、幻想や誤った交流を捨て、永遠性を理解し、物欲を持たず、苦楽という二元性を超越し、惑わされることもなく、そして至高主に服従する方法を知る者は主の永遠の住居に達する」

自分の精神的正体を知り、物質的な存在観念がなく、迷わず、物質自然の様式を超越し、精神的知識を学びつづけ、感覚を楽しむきもちを捨てた人が最高人格主神のもとに帰っていけます。ムーダ(愚かで無知な人々)と区別して、幸福や不幸という二元性にとらわれていないそのような人々をアムーダといいます。

では、最高人格主神の王国はどのようなところでしょうか?『バガヴァッド・ギーター』の第15章・第6節にその説明があります。「私の住む至高の住居は太陽、月、火や電気の光で照らされているわけではない。そこに達した者は決してふたたび物質界に戻ることはない」

 主はすべての星の最高所有者であるため、創造世界のすべてが最高人格主神の王国に含まれています。しかし、主みずからが住んでいる場所もあり、そこは私たちが住む宇宙とはおよそかけ離れた世界です。その住居をパラマン、至高の住居といいます。地球でも、生活水準の高い国、低い国があります。宇宙には、地球のほかにも数えきれない惑星が散在し、優れた惑星があれば、劣った惑星もあります。どちらにしても、物質界という外的エネルギーのなかは暗闇の世界ですから、どんな惑星にも太陽や火の光が必要です。しかしこの世界を越えたところに精神的空間があり、経典には「そこは最高人格主神の優性な自然に従って機能している」と述べられています。ウパニシャッドもその世界について説明しています。「太陽、月、星もいらず、電気、火の明かりもいらない。物質宇宙のすべてがその精神的光輝の反射で照らされ、またその精神自然界がみずから輝いているため、私たちは漆黒の闇夜にでさえまばゆい光を見ることができる」。『ハリ・ヴァンシャ』でも、精神的自然について至高者みずから語っています。「非人格的ブラフマン(絶対者の姿のない様相)のまばゆい光は、物質・精神両世界を照らしている。しかしバーラタよ、このブラフマンの光輝は、わたしの体の光であることをよく理解しておかなくてはならない」。『ブラフマ・サムヒター』も同じことを断言しています。ロケットを使った物質科学で至高者の住居に行けると考えてはいけませんが、クリシュナの精神的住居に入れば、永遠で精神的な幸せをいつまでも味わえるということを知っておくべきです。過ちを犯す私たち生命体には2種類の生き方があります。生老病死という苦しみに満ちた物質的存在、そして永遠で喜びと知識にあふれ、つきることのない精神生活が満喫できる精神的存在です。物質存在にいる私たちは、体と心という物質概念に動かされていますが、精神的存在にいれば、幸せで超越的なふれあいを至高者と交わすことができます。精神的存在にいれば、主は私たちからぜったいに離れません。

 クリシュナ意識運動は、精神生活を社会に広めようとしています。いまのような物中心の意識にいれば、肉体観念にとらわれた生活に心が奪われがちですが、クリシュナへの献愛奉仕、すなわちクリシュナ意識を実践すればその思いはすぐに取りのぞくことができます。献愛奉仕をはじめれば、物質的な生き方を超越し、俗世間の仕事をしながらでも徳・激情・無知という様式から解放されます。ふつうの仕事をしている人々でも、クリシュナ意識運動で出版されている『バック・トゥ・ゴッドヘッド』誌やその他の書物を読めば、すばらしい恩恵を授かることができます。それらの書物が、物質存在という頑強な菩提樹の根を倒そうとする私たちに力を貸してくれます。また権威ある書物として、私たちが物質的な執着を完全に断ちきる強い助けとなると同時に、あらゆる面で精神的甘露を味わわせてくれます。この境地は献愛奉仕だけでしか達成できず、ほかの方法では得られません。献愛奉仕をすれば、現世ですぐに解放(ムクティ)が得られます。精神的な修行という言葉にはどこか物質主義のきもちが含まれていますが、純粋な献愛奉仕にはどのような汚れもありません。最高人格主神のもとに帰りたい人は、ただこのクリシュナ意識運動の原則を受けいれ、最高人格主神・クリシュナの蓮華の御足に意識を集中させるべきです。