輪廻、そのサイクルを越えて

 

 1976年8月、シュリーラ・プラブパーダは、ロンドンの北24キロにあるバクティヴェーダンタ・センターに数週間滞在していたとき、ロンドン放送局のマイク・ロビンソン氏のインタビューを受けました。その模様はテレビで放映されましたが、そのなかでシュリーラ・プラブパーダは、クリシュナ意識は単なる信念にもとづく慣習的儀式ではなく、輪廻の科学を明確かつ簡潔に説く深遠な知識である、と説きました。

 

マイク・ロビンソン氏 みなさんが信じていること、つまりハレー・クリシュナ運動の哲学について話していただけますか?

シュリーラ・プラブパーダ わかりました。クリシュナ意識は、信じるだけの宗教ではありません。科学です。まず、生きている体と死んだ体の違いを知ることが第一歩です。違いはなんでしょう。それは、死ぬと精神魂、あるいは生命力が体から離れていく、ということです。だから「死んだ」と呼ばれます。そこには2つの要素、つまり体とその体内にいる生命力が関係しています。私たち献愛者は、体内の生命力に重点をおいています。ここが、クリシュナ意識の精神的科学とふつうの物質的科学の違いです。ですから、初めて聞く人にはクリシュナ意識運動の真価はわかりにくいことでしょう。まず、自分は魂である、あるいは体とは別のなにかであることを知らなくてはなりません。

マイク・ロビンソン氏 いつわかるようになりますか?

シュリーラ・プラブパーダ いつでも理解できます。でも少し頭を働かせなくてはいけません。たとえば、子どもが育って少年になり、少年はやがて青年になり、壮年になり、そして最後に老人になります。体は少年から老人に変わりますが、本人は同じ人間であることを自覚しています。おわかりですか? 体は変化しても、体の所有者である魂は変わりません。その点がわかれば、体が死んで魂は他の体に入ることが論理的に結論できます。それが魂の輪廻です。

マイク・ロビンソン氏 つまり、死ぬというのは、物質的な体が死ぬだけなのですね。

シュリーラ・プラブパーダ そうです。『バガヴァッド・ギーター』(第2章・第20節)もそう説いています。

弟子

 

ナ ジャーヤテー ムリヤテー ヴァー カダーチン

na jäyate mriyate vä kadäcin

 

ナーヤン ブートゥヴァー バヴィター ヴァー ナ ブーヤ

näyaà bhütvä bhavitä vä na bhüyaù

 

アジョー ニッテャ シャーシュヴァトー ヤン プラーノー

ajo nityaù çäçvato 'yaà puräëo

 

ナ ハニャテー ハニャマーネー シャリーレー

na hanyate hanyamäne çarére

 

 「魂は、いつなんどきでも、生まれも死にもしない。過去に存在しはじめたわけではなく、今存在するようになったわけではなく、未来に存在するようになるわけでもない。生まれることなく、永遠で、つねに存在し、太古の昔から存在している。肉体が殺されても、魂は殺されない」

マイク・ロビンソン氏 読んでいただき、ありがとうございます。もうちょっと説明してください。魂が死なないのなら、どの魂も死んだら神のところに帰っていくのですか?

シュリーラ・プラブパーダ とはかぎりません。資格がいります。ふるさと、主のもとに帰る資格をいま生きているときに身につけた人が帰れます。その資格がなければ、また別の物質の体に入るしかありません。生物の体は840万種類あります。魂が持つ望みやカルマに応じた体を自然の法則が与えるのです。病気にかかると、その症状が現われるように。むずかしいですか?

マイク・ロビンソン氏 むずかしくて、全部はわかりません。

シュリーラ・プラブパーダ たとえば天然痘にかかるとします。1週間もすると症状がでてきます。その期間をなんといいましか?

マイク・ロビンソン氏 潜伏期ですね。

シュリーラ・プラブパーダ そう、潜伏期。ぜったいに発病は止められない。いったん感染すると、自然の法則でかならず症状がでてきます。同じように、生きているあいだにさまざまな物質自然の様式とかかわりあい、そのかかわり方で来世の体が決まります。それは、自然の法則どおり厳格に進行しています。どんな人でも自然の法則に動かされています――例外なく――でも、なにも知らない人は「私は自由だ」と思いこんでいます。まったく自由ではないのに。自由だと想像しているだけで、じつは自然の法則にがんじがらめになっています。私たちの来世は、いましていることが善か悪かで決まります。

マイク・ロビンソン氏 尊師。いまの話のことでお聞きします。だれも自由ではない、と言いました。正しい生活をすれば将来でもいい生活が約束されるということですね。

シュリーラ・プラブパーダ そうです。

マイク・ロビンソン氏 では、なにが大切なものであると信じるか、その信念は自分で選べるのでしょうか? 宗教は大切です。神を信じて良い生活をすれば……

シュリーラ・プラブパーダ 信じる、ということではありません。これは、信じる信じないの問題ではないのです。法則です。たとえば国には政府があります。政府の存在を信じても信じなくても、法律を破れば罰せられます。同じように、信じても信じなくても神はいます。神を信じないで好きかってに生きれば、自然の法則に罰せられます。

マイク・ロビンソン氏 なるほど。では、どんな宗教を信じてもいいのですか? それともクリシュナの献愛者であることが大切なのですか?

シュリーラ・プラブパーダ 宗教云々の問題ではありません。科学の問題です。あなたはもともと精神的生命体ですが、物質に縛られているので物質自然の法則に動かされています。あなたがキリスト教を信じ、私がヒンドゥ教を信じても、あなたは歳をとって私心らないというわけではありません。だれでも歳をとる、という科学が問題なのです。それが自然の法則です。キリスト教だから歳をとる、ヒンドゥ教だからいつまでも若い、とは言えません。だれでも歳をとります。どんな宗教を信じようと、そんなことはまったく関係ありません。

マイク・ロビンソン氏 私たちを支配しているのはひとりの神だけ、と言っているのですね。

シュリーラ・プラブパーダ 神はひとりだけ、自然の法則もひとつだけ、そしてだれでも自然の法則に動かされています。至高者に支配されているのです。自由だ、なんでもできる、というのは愚かな証拠です。

マイク・ロビンソン氏 わかりました。次に、ハレー・クリシュナ運動の一員と他の宗教家との違いを教えてください。

シュリーラ・プラブパーダ ハレー・クリシュナ運動は、この科学を真剣に学ぼうとする人のためにあります。また、特定の宗派に属しているわけでもありません。だれでも参加できます。学校の生徒、キリスト教徒、ヒンドゥ教徒、イスラム教徒――どんな人でもかまわない。神の科学を知りたい人なら、だれでもクリシュナ意識運動に参加できます。

マイク・ロビンソン氏 ハレー・クリシュナの人になるための勉強をしたら、生活はどう変わるのでしょうか?

シュリーラ・プラブパーダ ほんとうの教育が始まります。自分が精神魂であると知るのが第一歩です。精神魂だから体を変えている――それが精神的理解のはじまりです。死んで体がなくなっても、魂はなくなりません。別の体に入る、つまり、上着やシャツを着がえるのと同じです。別の服を着たら、別人になりますか? いいえ。このように、死ぬたびに体は変わりますが、あなた自身すなわち体のなかの精神魂は同じです。その点をよく知っておくべきです。知っていれば、クリシュナ意識の科学がさらに高められます。

マイク・ロビンソン氏 少しずつわかってきましたが、まだ理解しにくいのは、尊師のお弟子さんたちがオックスフォード通りでハレー・クリシュナの本を配っていることと、尊師のいまの話がどうつながっているかということです。

シュリーラ・プラブパーダ 私たちの本の目的は、精神生活の大切さを人々に説くことです。

マイク・ロビンソン氏 尊師は、受け取った人たちがハレー・クリシュナ運動に参加するしないは気になさらないのですね?

シュリーラ・プラブパーダ そうです。私たちの使命は、人々に正しい知識を分け与えることですから。だれもが無知に包まれ、愚か者の天国ですごしています。そして死んだらすべては終わると考えています。愚かなことです。

マイク・ロビンソン氏 尊師は、そういう人たちに精神的次元の生活があることを知らせたいのですね?

シュリーラ・プラブパーダ まず言いたいのは、真の自己は体ではないということです。体は自己を覆うシャツや上着にすぎず、自己はその体のなかに住む魂です。

マイク・ロビンソン氏 はい、その点はよくわかりました。そこから話をさらに進めますが、現世の生き方しだいで死んだあとの生活が決まる、自然の法則があり、来世がその法則で決まる、と言いました。輪廻はどのように起こるのでしょうか?

シュリーラ・プラブパーダ 輪廻は目に見えない次元で起こっているので、とてもわかりにくいものです。精神魂は原子ほどの大きさで、物質的な目には見えません。感覚、血、骨、脂肪などでできた濃密な肉体がなくなったあとも、想念や知性や自我でできた幽体は存在しつづけます。死んだとき、この幽体が小さな魂を別の濃密な体に運んでいきます。空気がにおいを運ぶ様子を考えてみてください。バラの香りがどこから運ばれてくるのか目では見えません。でも運ばれてきていることはわかります。同じように、魂の転生は目には見えない現象です。死ぬときの心情に応じて、小さな精神魂が父親の精子をとおして母親の胎内に入り、母親から与えられた体が成長していきます。それは人間の体かも知れませんし、犬か猫の体である可能性もあります。

マイク・ロビンソン氏 前世では人間ではなかった、とおっしゃるのですか?

シュリーラ・プラブパーダ そうです。

マイク・ロビンソン氏 そしてまた、来世で別のなにかになるのですね。

シュリーラ・プラブパーダ そうです。魂は永遠ですから。生きているあいだになにをしたかに応じて、体を変えているのです。だから、この繰りかえしをなんとか止めたい、自分本来の精神的体に戻りたい、と思うべきです。それがクリシュナ意識です。

マイク・ロビンソン氏 なるほど。クリシュナ意識になれば、犬に生まれ変わることはないのですね。

シュリーラ・プラブパーダ そうです。[献愛者に]この節を見つけなさい。Janma karma ca me divyam...

弟子

ジャンマ カルマ チャ メー ディヴャンム

janma karma ca me divyam

 

エーヴァンム ヨー ヴェーッティ タットゥヴァタハ

evaà yo vetti tattvataù

 

テャクトゥヴァー デーハンム プナル ジャンマ

tyaktvä dehaà punar janma

 

ナイティ マーンム エーティ ソー ルジュナ

naiti mäm eti so 'rjuna

 

 「アルジュナよ。わたしの降誕と活動の超越的な特質を知る者は、肉体を去ったあとに物質界にもどることなく、わたしの永遠なる住居に到達する」

(『バガヴァッド・ギーター』第4章・第9節)

シュリーラ・プラブパーダ 神は「わたしを理解した者は、誕生と死から救われる」と言っています。しかしただ物質的な推論をするだけでは神は理解できません。推論ではなにもわかりません。まず精神的段階に達することが大切です。その状態に達すれば、神を理解する知性が授けられます。神が理解できれば、物質でできた体に二度と戻らず、ふるさと、神の国に帰っていきます。永遠に生き、別の体には入らないのです。

マイク・ロビンソン氏 わかりました。経典から2度引用されました。その経典について少し説明していただけますか?

シュリーラ・プラブパーダ 私たちが使っている経典はヴェーダ経典で、宇宙が創造されたときからあります。新製品を作ったときには、たとえばこのマイクもそうですが、取扱説明書も作成されます。

マイク・ロビンソン氏 ええ、そうですね。

シュリーラ・プラブパーダ 取り扱い説明書は、マイクが作られたときからあります。

マイク・ロビンソン氏 はい。

シュリーラ・プラブパーダ それと同じで、ヴェーダ経典は宇宙が創造されたとき、その扱い方を説明するために同時に作られます。

マイク・ロビンソン氏 なるほど。つまり、ヴェーダ経典は宇宙創造のはじめからあるというわけですね。では、話題を進めたいと思います。尊師が強く感じている点だと思うのですが、クリシュナ意識と、いま西洋で広まっている東洋の教義はどの点がもっとも違うのでしょうか?

シュリーラ・プラブパーダ 原書に忠実な心がまえと、独自の文献を編む態度の違いです。―― そこが最一番の違いです。精神的な問題について知りたいことがあるなら、原典をひもとくべきです。正統でない者が作った書物を読んでも答えは見つかりません。

マイク・ロビンソン氏 ではハレー・クリシュナ、ハレー・クリシュナという唱名は……

シュリーラ・プラブパーダ ハレー・クリシュナの唱名は純粋になる一番かんたんな方法で、鈍感なために精神的知識がすぐに飲みこめない現代人にとくに勧められています。ハレー・クリシュナを唱えれば、知性が純粋になり、精神的なことがわかってきます。

マイク・ロビンソン氏 みなさんはなにを規準にして行動されるのでしょう?

シュリーラ・プラブパーダ ヴェーダ経典の言葉です。

マイク・ロビンソン氏 さきほど引用された経典ですね?

シュリーラ・プラブパーダ そうです。すべて経典に述べられています。それを英語で説明しています。といっても、新しいことをはじめたわけではありません。勝手に知識を作っても、なにうまくいきません。ヴェーダ経典は、マイクの取扱説明書のようなものです。「使い方は次のとおりです。一番のネジはこの金属板の上に……」と書いてあれば、その内容は勝手に変えられません。変えたらマイクは使えない。同じように、私たちの本には勝手な解釈は書かれていませんから、ただこの本を読みさえすれば、ほんとうの精神的知識が得られるのです。

マイク・ロビンソン氏 クリシュナ意識の哲学は、人生にどのような影響を与えますか?

シュリーラ・プラブパーダ 苦しみを取りさります。自分と体が同じだと思っているから苦しみます。自分を上着やシャツだと思ったら、そして食べることも忘れて上着やシャツを洗っていたら、それで幸福に生きられると思いますか?

マイク・ロビンソン氏 もちろん、むりです。

シュリーラ・プラブパーダ 同じように、だれでも「上着やシャツ」を洗っているだけで、体のなかにいる魂のことをすっかり忘れています。体という「上着やシャツ」のなかにある魂について聞いたことがないのです。あなたはだれですか、と聞いてごらんなさい。「はい、イギリス人です」「インド人です」という答が帰ってくるはずです。でも「国籍はわかりました。でも、あなた自身はどのような存在ですか」と尋ねると、答えられません。

マイク・ロビンソン氏 なるほど。

シュリーラ・プラブパーダ 現代文化は、自分は体である、というまちがった考え(dehätma-buddhiデー心マ・ブッディ)で暮らしています。犬や猫と同じ頭脳です。私がイギリスに入ろうとすると、入国審査官が「私はイギリス人だ。お前はインド人だ。どうして来たのだ」と尋ねます。犬も同じように「ワンワン、どうしてこっちへ来るんだ」とほえます。頭のなかは同じですね。犬は自分が犬だと思い、私を見知らぬ人だと思います。そして審査官は自分がイギリス人だと思い、私がインド人だと思っています。同じ程度の頭脳なのです。犬のような暗闇の世界にいるにもかかわらず、高度な文明人だと考えているのなら、それ心んでもない勘違いです。

マイク・ロビンソン氏 では次の質問に移ります。ハレー・クリシュナ運動は、苦しんでいる国の人々を救おうと努力されているのでしょうか?

シュリーラ・プラブパーダ そうです。それだけが私たちの関心です。ほとんどの人が、もっともたいせつな問題、つまり生老病死から目をそらせようとしています。その問題を知っていても解決法を見いだせず、無意味な言葉ばかり話し合っている人たちもいます。まちがった道を進んでいるからこそ、暗闇の世界にいるのです。そういう人たちに光を投げかけたいと思っています。

マイク・ロビンソン氏 同感です。しかし精神的な教えをさずけることの他に、物質面での福祉はどうお考えですか?

シュリーラ・プラブパーダ 精神的に健全なら、物質的にも健全になります。

マイク・ロビンソン氏 どのように?

シュリーラ・プラブパーダ 車の所有者は、自分と同じように車も大切にします。でも、車が自分だと思ったりはしません。「私はこの車だ」とはまちがっても言わないはずです。そんなばかなことはありませんから。ところが、そんなおかしなことをみんなが言っているんです。体という「車」にあまりにも気がとられて、車が自分だと思っています。自分は車ではなく精神魂であることを忘れ、焦点のずれたことをしているのです。ガソリンを飲んでも満足できないように、体のためだけに働いても満足できません。魂には魂の食べ物が必要です。「私は車だから、ガソリンを飲まなくては」という考えは狂っています。同じように、自分が体だと思っている人、体を満足させて幸福になろうとしている人も狂っているのです。

マイク・ロビンソン氏 本にあった一節ですが、ひとつ解説してくださいますか。お弟子さんからいただいた本ですが、「論理にもとづいていない宗教は感傷にすぎない」とありました。意味を教えていただけませんか?

シュリーラ・プラブパーダ 宗教家はしばしば「信念」ということを口にします。しかしその信念にどんな価値があるのでしょうか。まちがった知識を信じこむことも充分ありえます。たとえば、キリスト教徒には「動物には魂がないと信じる」と言う人たちもいます。それはまちがいです。食べたいから「動物には魂がない」というのであって、じっさいは動物にも魂があります。

マイク・ロビンソン氏 そう言いきれる根拠は?

シュリーラ・プラブパーダ あなたにもわかります。科学的に証明できます。動物が食べ、人間も食べます。動物が眠り、人間も眠ります。動物が交尾をして、人間も性を営みます。動物も自分を守ろうとし、人間も自分を守ります。では動物と人間はどう違うのですか? 人間には魂があって動物にはない、などとどうして言えるのですか?

マイク・ロビンソン氏 よく、わかりました。でもキリスト教の経典では……

シュリーラ・プラブパーダ 経典云々ではなく、常識の問題です。よく考えてください。動物が食べ、人間も食べる。動物が眠り、人間も眠る。動物が身を守り、人間も自分を守る。動物が交尾し、人間も性を営む。動物が子どもを作り、人間も子どもを作る。動物たちが住む場所を持ち、人間も家を持っている。動物の体を切れば血がでる。人の体を切ればやはり血がでてくる。こんなに類似点があるのに、どうして魂の存在という一点だけを否定するのでしょう。それは論理的ではありません。学校で論理学を学ばれたと思いますが、類推という言葉があります。類推とは、にかよった点をもとにして、ほかの事柄を結論することです。人間と動物に共通点がいくらでも見つかるのに、どうしてたったひとつの類似点を否定するのですか。論理と科学に反しているではありませんか。

マイク・ロビンソン氏 でも、類推を逆の方向で使えば……

シュリーラ・プラブパーダ 逆の方向はありません。論理に反して話を進めるのは、道理にかなっていない、ということです。

マイク・ロビンソン氏 わかりました、でも、人間に魂がないという仮定をもとに議論を進めるなら……

シュリーラ・プラブパーダ ならば、生きている体と死んだ体の違いを明らかにすることが必要です。その点はさきほど話しました。生命力、つまり魂が体から出たとたん、美しい体でも価値はなくなります。だれも見向きもせず、どこかに捨てられます。ところが、私があなたの髪にさわろうものなら、すぐにけんかが始まるかもしれませんそれが、生きている体と死んだ体の違いです。生きている体のなかには魂がいて、死体のなかには魂がない、ということです。魂が体から出てしまえば、体にはもうなんの価値もありません。無用の長物というわけです。かんたんにわかることですが、大科学者や大哲学者とされる人たちは頭があまりにも鈍いために、こんなかんたんな話が理解できないのです。現代社会はじつに嘆かわしい状態にあります。真の頭脳をそなえた人がまったくいません。

マイク・ロビンソン氏 命に関する精神的次元が理解できない科学者たちのことを言っているのですか?

シュリーラ・プラブパーダ そうです。真の科学とは、精神と物質の両面を完全に知ることです。

マイク・ロビンソン氏 以前は薬剤師だったとうかがっていますが?

シュリーラ・プラブパーダ ええ、以前は薬局を営んでいました。しかし、薬剤師になるのにたいした頭脳がいるわけではありません。常識のある人ならだれでもなれます。

マイク・ロビンソン氏 でも、物質的な科学も重要ではないでしょうか? 現代科学者は頭が鈍いとしても。

シュリーラ・プラブパーダ 物質的科学もある程度は大切ですが、なによりも重要だというわけではありません。

マイク・ロビンソン氏 わかりました。さきほどから1つ気にかかっていたことがあります。「経典云々ではなく、常識の問題です」と言いましたが、経典は尊師の宗教でどのような役割があるのですか。どれほど重要なのでしょう?

シュリーラ・プラブパーダ 私たちの宗教は科学です。子どもが少年になるのは科学です。宗教ではありません。子どもが少年に育つのは宗教の問題ではありません。だれもが死ぬ。これも宗教の問題ではありません。また、人が死ねば体には価値がなくなるという事実も宗教とは無関係です。純然たる科学です。キリスト教、ヒンドゥ教、イスラム教、どんな宗教をやっていようと、死体は使いものになりません。これが科学的な考えです。親戚が死んで、「私はキリスト教徒だから親戚が死んだことは信じないとはいえませんね。信じても信じなくても、親戚は死んだのです。キリスト教を信じていても、ヒンドゥ教やイスラム教を信じても、親戚が死んだのは事実です。ですから私たち献愛者にとっては、「体というものは魂が体内にいるかぎり重要であり、魂がないなら無用である」という観点が議論の出発点です。その科学はだれにも当てはまるもので、その点を規準にして人々を教化しようとしています。

マイク・ロビンソン氏 でも、尊師の言葉から察しますと、純然たる科学的知識で人々を教化しようとなさっているようにうかがえますが、では、宗教はどのようにかかわっているのですか?

シュリーラ・プラブパーダ 宗教もまた科学です。たいていの人は、信じることが宗教だと勘違いしています。(献愛者に向かって)辞書で「宗教」を調べてみなさい。

弟子 「宗教」は、「超人間的支配あるいは力、特に服従する対象として人格的な神の認識。また適切な心がまえで、その認識にもとづいて行動すること」とあります。

シュリーラ・プラブパーダ そう。宗教とは、最高の支配者に従う方法を学ぶことです。ですから、キリスト教徒やヒンドゥ教徒と区別しなくてもいいのです。それはまったく問題ではありません。最高の支配者がいることを、だれもが納得しなくてはいけない。それがほんとうの宗教です。「動物には魂がないと信じる」という考えは宗教ではありません。どうしようもなく非科学的な考え方です。宗教とは、最高の支配者を科学的に理解する、ということです。最高の支配者を理解し、そして従う――ただそれだけです。良い国民とは国の政治を認め、その法律に従う人々であり、悪い国民は国家を無視する人々です。ですから、至高者の政府を無視して悪い国民になるのは非宗教的で、良い国民になることが宗教的な生き方です。

マイク・ロビンソン氏 なるほど。では、生きる意味とはなにか、説明してくださいませんか。そもそも、私たちはなぜ存在しているのでしょう?

シュリーラ・プラブパーダ 生きる意味は楽しむことです。しかし、「生きる」ということに関していまはまちがった段階にあるために、楽しめずに苦しんでいます。どこでもだれでも、生存競争に巻きこまれています。だれもが闘っていますが、結局最後にはどんな楽しみが味わえるのでしょう。ただ、苦しんで死んでいくだけです。人生は楽しむためにあるのに、だれも楽しんでいません。しかし、ほんとうの精神的段階に入れば楽しむことができます。

マイク・ロビンソン氏 最後の質問です。精神生活をするうえで体験する段階についてご説明をお願いします。クリシュナの新しい献愛者はどのような体験をするのでしょうか?

シュリーラ・プラブパーダ 最初は好奇心です。「クリシュナ意識運動とはなんだろう? ひとつ勉強してみよう」と好奇心が湧きます。それがシュラッダー(çraddhä)すなわち「信念」で、それがスタート点です。真剣さが増せば、クリシュナ意識の知識を学んでいる人たちと交流するようになります。献愛者がどう感じているのか知りたいと思うようになり、やがて「自分もはじめてみよう」と考えるようになります。そして交流がはじまれば、いままで感じていた疑いはすっかり晴れ、信念が強くなり、クリシュナ意識のほんとうの甘露を味わうようになっていきます。この青年たちがどうして映画を見にいかないかおわかりですか。肉も食べず、ナイトクラブにも行かない。どうしてでしょう? それは楽しみ方が変わったからです。いまでは、そんなことを嫌うようになりました。このように高められていくのです。最初に信念、次に献愛者との交流、そして疑いがすっかり晴れ、固い信念が築かれ、甘露を味わい、神を悟り、そして神への愛情にひたる完全な段階に高まっていきます。これが一流の宗教です。信念しかない慣習的な儀式とは違います。それは宗教ではありません。詐欺です。ほんとうの宗教とは、神への愛情を高めることです。それが宗教の完成段階です。

マイク・ロビンソン氏 きょうは、お話を聞かせていただき、ありがとうございました。おかげで楽しく勉強できました。

シュリーラ・プラブパーダ ハレー・クリシュナ。